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張三豊による呂祖の「百字碑」への注釈 2011-02-11 静塵草堂 タイヤコミュニティからの転載 読了数:929、シェア数:116 ライブラリに保存する 微信で共有する:張三豊による呂祖の「百字碑」への注釈 気を養い、言葉を忘れ、心を落ち着かせることが大切だ。 修行する者は、まず気を養わなければならない。気を養う法とは、言葉を忘れて一に専念することにある。言葉を忘れれば気は散らず、一を守れば神は出ない。訣曰:缄舌静、抱神定。 凡人の心は、絶えず動揺している。修行者は心を静めたいと願い、両目を制することが肝要である。目とは心の門であり、必ず帳を下ろして塞がなければならない。すべてのことは、心を剣とする。世の中のことは私にとって何の益もない、炎はたちまち消え去る、執着してはならない。 訣云:目で鼻を見、鼻でへそのを見る。上下が見つめ合い、心と息が寄り添う。玄関に心を注げば、思いを制することができる。 動静にして宗祖を知り、事なくして更に誰を求む。 動と静とは、一つは陰で、もう一つは陽なのである。宗祖とは、生まれた場所なり。修行者は、父母が生まれる前は、すでに玄牝であったことを知るべきである。全身にわたり、乾坤八卦、五行四象が集まる場所、それは天地が分かれる前の状態であり、一つの霊光によって生まれたもの、それが太極なのである。心の下、腎の上、まるで内なるところで、思いが生じる場所なくして、それこそが祖霊である。いわゆる動静とは、真気を調和させ、真元を安定させることである。蓋は天の根に接し、吸いは地の根に接する。これを閉じた戸と言い坤という。開けた戸と言い乾という。呼べば龍が鳴き雲が立ち、吸えば虎が吼え風が生じる。開け閉じ、動きと静けさが交錯し、心の意志は動じず、自然な呼吸をそのままにする。絶え間なく続き、呼吸を止むほどに調え、一つになれば、その時こそ神を凝縮し、丹を完成させることができる。 気を養い、言葉を忘れて守り、身心を制御し、神を気の穴に帰し、意を規則正しく集中させ、一つの気として混ざり合わせる。まるで鶏が卵を抱くように、龍が真珠を育てるように、常にこのことを心に留め、一瞬たりとも離さない。日々修行を重ねるうちに、自然と黍や米のような真珠が現れ、太陽のように輝き、元神を変化させ、その霊明さは計り知れない。これこそがそれである。 真常は物に応じ、物に応じても迷わず。 この道は真常の道であり、事に応じる際に迷いやすいため、人と接する際には世俗のことに惑わされてはならない。応じなければ、空寂、虚無。呼ばれれば応じ、事が過ぎれば留まらず、光明正大であれば迷わず、真の本性は清らかで、元の精神は結集する。訣いわく:意を込めればことごとく誤り、無為であっても空しきに終わる。 迷わずに自ら住み、性が住めば気は自然と戻る。 人の性は火のように激しく、喜びや怒り、悲しみや楽しみ、愛や憎しみ、欲望や嫌悪といったものは、絶えず変わり続ける。しかし、心が動かされると妄想が生じ、静けさを保つのが難しくなる。必要に真の微かな怒りがあれば火は下がり、真に欲が少なければ水は上がる。身を動かさず、これを精を練るという。精を練れば虎が吼え、元神は凝固する;心が動かなければ、それを煉気という。煉気すれば龍が鳴き、元気が保たれる;念じることができなければ、それを煉神という。煉神すれば二つの気が交わり、三つの要素が混ざり合い、元気が自然と戻ってくるのだ。三元者、精気神なり;二気とは、陰陽である。修行者は物に迷わず、そうすれば元神は自然と戻り、本性も自然と保たれるのである。性に従って住めば、体内の先天の気は自然と戻り、元の場所に帰る。何が難しいというのか!訣曰:回光返照、一心中存。内側では思いつかず、外側にも入れない。 氷回丹自結、壺中に坎離を配す。 修行者は、本性が塵世のことに迷わないため、気は自然と戻る。中宮において二つの気が昇降し、陰陽が丹鼎の中で結び合う。ふと、腎の中から一本の熱い気が心臓へと上昇してくる。情念は本性に帰り、まるで夫婦が結ばれるようで、夢中になり酔ったようだ。二つの気が渦を巻き、丹の質となって結ばれる。そして気の穴の中で水と火が交わり、絶え間なく循環する。そうすれば神が気を操り、気が形体に留まる。特別な術を用いずとも自然に成長する。秘訣とは、耳・目・口という三つの宝を閉じて、決して外に漏らしてはならない、ということだ。真人は深淵に潜り、浮遊は規則を守る。丹田の気が満ち、刀圭となるのだ。 陰陽は繰り返し生じ、遍く一声の雷が鳴る。 工夫を尽くせば、神は外に散らず、気も外に漏れない。神は気の穴に帰り、坎と離が交わり、一層激しく精進する。虚の極みに至り、静を固く守る。身体は深遠な虚無の中で静まり、心は何もない場所で清らかになる。そうすれば、真の息吹は自然と止み、百の脈も自然と止まり、日月の動きも止み、璇玑も回らなくなる。太極は静かでありながらも生き生きとし、陽は西南方の坤から生じる(坤とは腹部のことで、曲江とも呼ばれる)。突然、黍の実ほどの大きさの閃きがあり、それこそが薬ができる兆しであった。眩いばかりの光が差し込み、両腎は湯で煮られるようであり、膀胱は火で焼かれるようだ。腹の中では激しい風が吹き荒れ、雷鳴のような音が響く。これこそが復卦の天根が現れる時である。天根、今、すなわち固心王。神の助けを得れば、その気は火のようになり、金を上へと押し上げ、尾閂を通り抜け、そっと送り、静かに持ち上げる。和気あいあいとして、雷のように轟き、泥の球が上昇し、全身が活気に満ちる。これこそ天風姤卦である。月窟から印堂の眉の間に至り、そこから元の光が漏れ出す。それによって太極が動き、陰が生まれ、それが神水である甘露へと変わるのだ。内に黍米の珠あり、黄庭の中に落ち、我が離中霊水銀を点じ、聖相の体を結び、周天の火候を一度行う。煮て練り、丹は自然と結ばれる。 白雲は頂上へ、甘露は須弥に降り注ぐ。 ここまで来れば、薬は手に入る。二気が結びつき刀圭となり、関窍が開通し、火は降り水は上がり、一気が循環する。太極から天根を動かし、玄谷関を通り、二十四の椎骨の節を上って、天谷関に至る。月の窟より陰気が生じ、甘く香り高い味わい。重層の楼閣より降り注ぎ、絶え間なく続く。これを「甘露が須弥山に降り注ぐ」と呼ぶ。訣曰:甘露を口いっぱいに含み、目でそれを見送り、心で迎え入れ、丹釜の中へと送り下げ、凝結した元気でそれを養うのだ。 自ら長生の酒を飲み、自由に暮らすこと、誰が知るだろう。 気を養い、ここに至れば骨節は開き、神水が絶えず上下に流れ動き、絶え間なく行き来し、常に飲み込まれる。これを長生酒という。諺に曰く、流れる珠が霊根の性質を養う、修行する者はそれを知っているか否か。 座して無弦の曲を聴き、明らかに造化の機微を悟る。 ここまで工夫すれば、耳には仙楽の音が響き、さらに鐘や太鼓の調べも聞こえてくる。五気が朝に元に集い、三花が頂上に集まり、まるで夕暮れ時にカラスが飛来して止まるような様相である。心が明るくなれば、知恵が自然と生まれ、三つの教えの経典を理解し、過去の本質を黙って悟り、未来の吉凶を予知できる。 大地や山川はまるで手の中にあるかのようで、何万里も先を見通すことができ、六通の妙を得るのだ。これこそが実在するものである。私がここまで実際に来たのだ。もし虚偽の言葉を述べて後学を誤らせるなら、天は必ずその者を罰するだろう。出会っても行わなければ、天の罰が下る。師に会わなければ、このことは知り難い。 二十句ずつ、天のはしごに登ろう。 自養気忘言、ここまでの二十句はすべて呂祖の真の口訣である。工夫に偽りは一切なく、それこそが修行のための天への階梯である。この訣と注を得て悟った者は、急いで実行すべし。決して漏らしてはならず、悪人に見せてはならない。そうでなければ天の罰を受けるだろう。大切に持って行き、天の宮殿まで届けよ。